フィギュアスケートのペア「りくりゅう」こと三浦璃来さんと木原龍一さんが婚約を発表した。
2019年のペア結成から苦しい時期を支え合い、2026年のミラノ・コルティナ冬季五輪では、日本ペア初の金メダルを獲得。競技生活を終えた二人が、今度は人生のパートナーになることを公表した。
公式投稿には多くの祝福が寄せられた。
一方、SNSの一部では、こんな言葉も飛び交った。
「騙された」
「イチャイチャを見せないでほしい」
「公私混同ではないか」
「いい大人なのだから節度を持つべきだ」
そう感じてしまった人へ、最初に伝えておきたい。
あなたの感情まで否定するつもりはない。
ただ、そのフラストレーションを発散する場所は、ここではないと思う。
祝福できなくてもいい
他人の婚約を、必ず祝福しなければならないわけではない。
幸せそうな二人を見て、心がざわつく日もあるだろう。
羨ましいのかもしれない。
自分の恋愛がうまくいっていないのかもしれない。
これまで自分が人目を気にして我慢してきたことを、二人が堂々と楽しんでいるように見えるのかもしれない。
あるいは、単純に二人の距離感が好みではないだけかもしれない。
「見たくない」「苦手だ」と思う自由はある。
無理に立派な人間になり、他人の幸福を喜ぶ必要はない。祝福できない自分を責める必要もない。
ただし、その気持ちは自分の中に生まれたものである。
りくりゅうが、あなたの人生から何かを奪ったわけではない。
「私は苦手だ」が「世間では許されない」に変わるとき
「私は、あの二人の距離感が苦手だ」
それだけなら、個人の感想である。
ところが、その感情に理由をつけようとすると、主語が少しずつ大きくなる。
「私は見たくない」は、「人前で見せるものではない」に変わる。
「私は気に入らない」は、「いい大人として節度がない」に変わる。
「私は想像と違って戸惑った」は、「騙された」に変わる。
「私は羨ましいのかもしれない」は、「公私混同ではないか」に変わる。
主語を「私」から「世間」へ移すと、個人的な不快感が社会の常識を守るための忠告に見えてくる。
自分が気に入らないのではない。世間から見てよくないから、仕方なく教えてあげている。
本人の中では、そんな筋書きになる。
最大限に好意的に解釈すれば、少しおせっかいな親切心なのかもしれない。
ただ、親切と呼べるのは、相手がそれを必要としている場合だけだ。
自分の恐怖を、他人へ守らせるルールにしない
今回の騒動をめぐり、過去に女性コスプレイヤーへ粘着し、開示請求を受けて慰謝料を支払ったという人物の匿名投稿が注目を集めた。
これは心理学的な研究ではなく、一人の人間による自己分析である。
その人物は、他人の振る舞いを自分に重ね、「自分が同じことをしたら笑われる」「ネットで晒される」と羞恥や恐怖を感じていたという。
そして、その苦しさを「自分は怖い」と認める代わりに、「周囲が迷惑している」「人前では慎むべきだ」と社会のルールへ置き換え、相手を正そうとしていたと振り返っている。
りくりゅうへ文句を言う人が、全員同じ心理だと言うつもりはない。
ただ、自分の中に生まれた恐怖や不快感が、いつの間にか他人へ守らせるルールに変わることはある。
自分が我慢してきたからといって、他人にも同じ我慢をさせてよいわけではない。
そもそも、公私を混ぜて見てきたのは誰だったのか
りくりゅうに「公私混同するな」と言う前に、少しだけ振り返ってみたい。
メディアはこれまで、二人の演技や成績だけを報じてきたわけではない。
抱擁、会話、ケンカ、オフの日の過ごし方、カナダでの日常、互いへの気遣いまで、「りくりゅうの素顔」として伝えてきた。
2026年2月25日の日本記者クラブ会見では、金メダルを獲得した二人に「二人の関係は」と質問が飛んだ。
木原さんは「戦友、じゃないですけど」と表現を探し、三浦さんは「それを超えている。家族みたい」と答え、最後は二人で「ご想像にお任せします」と笑った。
二人が競技会見へ恋愛を持ち込んだのではない。
メディアが競技会見へ二人の私的な関係を持ち込み、その回答をさらにニュースにしたのである。
それまでにも、「二人は付き合っているのか」「競技外でも仲のいい二人」「プライベートでの二人の関係」といった企画は繰り返し作られてきた。
それ自体が悪いわけではない。
メディアは撮りたい。視聴者は見たい。りくりゅうも、二人の仲のよさを競技への注目や今後の活動につなげたい。
全員に都合がある。それは当たり前だ。
三者の都合が重なる場所で、「仲のいいりくりゅう」という人気コンテンツは成立してきた。
りくりゅうにも都合はある
もちろん、りくりゅうを一方的な被害者として描くつもりもない。
二人の仲のよさが知られることは、自分たちの人気だけでなく、日本ではまだ大きいとは言えないペア競技への注目にもつながった。
競技外の取材に応じ、掛け合いや日常の一部を見せることは、プロとしての活動、CM、イベント、競技の普及にもプラスになる。
二人もまた、「仲のいいりくりゅう」という物語から恩恵を受けてきた。
交際を公表しなかったことにも、二人なりの都合があったはずだ。
競技へ集中したい。演技より恋愛が大きく報じられることを避けたい。周囲への影響を抑えたい。そして、私生活をいつ、どこまで公表するかは自分たちで決めたい。
それも当然の都合である。
都合があることは、悪ではない。
見せてもらったことと、所有したことは違う
ただし、二人がその物語から恩恵を受けてきたからといって、私生活のすべてを説明する義務が生まれるわけではない。
日常の一部を見せたことと、人生のすべてを差し出したことは違う。
応援してきたことと、二人の関係について事前説明を受ける権利を持つことも違う。
二人は交際を明確に否定していない。「ご想像にお任せします」と、私生活の説明を控えただけである。
自分の中で描いていた二人の物語と、本人たちの人生が違っていた。
その落差を「騙された」と相手の責任にしてしまえば、応援はいつの間にか所有へ変わる。
見せてもらったことと、所有したことは同じではない。
公私を分けろと言うのなら
そもそも、りくりゅうに公私を完全に分けろと求めること自体に無理がある。
競技でも二人、練習でも二人、移動でも二人、取材でも二人。プロ転向後も「りくりゅう」として活動し、今後は私生活でも人生のパートナーになる。
もはや、公と私が混ざり得るしかない二人である。
競技外の二人を見てはいけないと言っているのではない。
見たいなら見ればいい。仲のよさを楽しめばいい。
ただ、自分から二人の公私の境界まで見に行き、そこで見えた物語が自分の想像と違っていたからといって、映された二人へ「公私を分けろ」と説教するのは順序が逆ではないか。
自分の都合で二人の素顔を楽しみながら、その素顔が自分の望んだものと違ったときだけ、本人たちへ世間体を突きつける。
それは少し、都合がよすぎる。
あなたのフラストレーションを発散する場所は、ここではない
幸せそうな二人を見て、心がざわつくことはある。
羨ましいのかもしれない。自分の想像と違って戸惑っただけかもしれない。二人の距離感が単純に好みではないのかもしれない。
その感情を否定する必要はない。
ただ、それは二人に直してもらう問題ではない。
りくりゅうを「公私混同だ」「節度がない」と叱っても、あなたが抱えている苦しさが軽くなるわけではない。
二人は、あなたから何かを奪ったわけでもない。
祝福できなくてもいい。見たくなければ画面を閉じてもいい。
全員に都合がある。それは悪ではない。
ただ、自分の都合だけを「世間の常識」に変え、相手だけに守らせようとするのは違う。
あなたのフラストレーションを発散する場所は、ここではない。
それは、りくりゅうが引き受けるものではない。
そこに気づけば、この話はそれで済む。


