『中島みゆきの哲学――なぜ彼女の歌は、こんなにも潔いのか』

中島みゆきの歌を一言で表すなら、私は「潔い」という言葉を選びたい。

「時代」のような人生を俯瞰する歌だけではない。

「わかれうた」を聴いても、「ひとり上手」を聴いても、「悪女」を聴いても、どこか清々しい。

失恋している。

未練もある。

嫉妬もする。

好きになってはいけない人を好きになることもある。

決して明るい話ばかりではない。

それなのに、不思議なほど湿っぽさが残らない。

なぜなのだろう。

中島みゆきという人の約50年にわたる歌をたどっていくと、その理由らしきものが少しずつ見えてくる。

23歳で、すでに「時代」を書いていた

中島みゆきは1975年にデビューした。

そして同じ年、「時代」を発表している。

当時23歳。

これは彼女のキャリアを考えるうえで、かなり重要な事実だと思う。

中島みゆきは、若い頃には恋愛を歌い、年齢を重ねてから人生や社会を歌うようになった人ではない。

最初から「時代」を書いている。

人は出会い、別れる。

悲しいことも起きる。

そして、それさえも時間の中を流れていく。

23歳ですでに、人生をかなり遠くから眺めている。

しかし、その後の中島みゆきが人生論ばかりを書いたかといえば、まったく違う。

「わかれうた」を書く。

「化粧」を書く。

「ひとり上手」を書く。

「悪女」を書く。

「横恋慕」を書く。

一人の女の、とても個人的な感情へ戻っていく。

ここが面白い。

「時代」を書いた人が「悪女」を書く

23歳で「時代」を書いたとなれば、その後も大きなテーマを扱う「思想的な歌手」でいることもできただろう。

しかし、中島みゆきはそんな格好をしない。

男を忘れられない。

強がる。

嫉妬する。

一人になってしまう。

悪い女になろうとしても、なりきれない。

人間の格好悪い部分を、そのまま歌にしてしまう。

そこには背伸びがない。

「時代」を書いた自分を大きく見せようともしないし、失恋した女を美しく見せようともしない。

そのとき見えているものを、そのときの自分で歌う。

だから「悪女」は純粋なのだと思う。

格好悪い感情を、格好よく説明し直さない。

好きなら好き。

寂しいなら寂しい。

未練があるなら未練がある。

それでいい。

だから悲しい歌なのに、どこか清々しい。

「うらみ・ます」という、もう一段深い潔さ

未練や嫉妬は、まだ人に話せる感情かもしれない。

しかし中島みゆきには、その手前にある、もっと生々しい感情をそのまま作品にした曲もある。

1980年のアルバム『生きていてもいいですか』の冒頭に収録された「うらみ・ます」だ。

そこにあるのは、裏切られた人間の恨みである。

慰めに向かわない。

教訓にも向かわない。

「いつか良い思い出になる」とも言わない。

恨んでいる。

だから、恨む。

それをそのまま作品にする。

一見すると、「時代」の達観とは正反対に見える。

しかし、本当にそうだろうか。

「時代」を書いたときに世界がそう見えていたのなら、そう歌う。

恨みを抱えている人間を描くなら、その恨みを綺麗な感情に変換しない。

どちらも、目の前にある感情や現実を別のものに見せようとしていない。

中島みゆきに一貫しているのは、同じ感情を持ち続けることではない。

感情に嘘をつかない態度なのではないか。

達観するときは達観する。

恨むときは恨む。

好きなときは好きでいる。

別れたなら、別れたという現実を歌う。

そこに、彼女の潔さがある。

男と女、どちらかを正義にしない

中島みゆきは、女性の生き方を数多く歌ってきた。

初期作品には、男を待つ女、男に未練を残す女、恋に負ける女もいる。

やがて、もっと力強く生きる女性も登場する。

しかし、それは単純に「弱い女性から強い女性へ」という変化ではないように思える。

昔の女性を否定して、新しい女性像を提示するわけではないからだ。

男には男の生き方がある。

女には女の生き方がある。

そして、その間に恋愛や別れや人生がある。

男を肯定しているわけではない。

まして、男を立てるために女性を描いているわけでもない。

あくまで女として「私はこう生きる」と歌う。

ところが、その女の生き方を聴いていると、不思議なことに、その向こう側にいる男の姿まで見えてくる。

男について説明していないのに、男をどう見ているのかまで伝わってくる。

どちらか一方を正義にしてしまえば、話はもっと簡単になる。

中島みゆきは、それをしない。

人間を見る。

おそらく、それだけなのだ。

「私の敵は私です」

その姿勢が強烈に現れる一曲が「ファイト!」だ。

この曲には、社会の中で傷つく人間たちの姿が描かれている。

理不尽な扱いを受ける人がいる。

自分ではどうにもならないものに苦しむ人がいる。

しかし、そこで中島みゆきは、すべてを社会や他人の責任にして終わらせない。

曲の中に、強烈な一言がある。

「私の敵は私です」

これは、自分を責める言葉としてだけ読む必要はないと思う。

裏返せば、

私の人生の決定権は、私にある。

ということでもある。

世の中には、自分ではどうにもならないことがある。

それでも、そのあと自分がどうするのか。

最後にそれを決めるのは自分だ。

そして、自分で決めた結果が幸福になる保証などない。

間違えるかもしれない。

負けるかもしれない。

悲惨な結果になるかもしれない。

それでも、自分で決めたのなら、それも自分の人生である。

中島みゆきの歌には、そんな潔さを感じる。

重要なのは、この曲が自分自身の物語だけを描いているわけではないことだ。

他人の人生を見る。

その人が置かれた社会を見る。

理不尽も見る。

弱さも見る。

それでも最後に、一人の人間へ視線を戻す。

社会を見ても、人間を見失わない。

それもまた、中島みゆきの歌に繰り返し現れる視線なのだと思う。

どこにも帰らなければ、人はさすらう

1995年の「旅人のうた」には、また別の形で同じものが現れているように見える。

男には男の故郷がある。

女には女の故郷がある。

さらに歌は、西と東、それぞれの正しさへと視野を広げていく。

どちらかに帰属すれば、さすらわなくて済む。

「私はこっちの人間です」

「こちらが正しいと思います」

そう決めれば、帰る場所ができる。

しかし、どちらにも自分を預けない人間は、旅を続けるしかない。

「何も持たないのは さすらう者ばかり」。

この言葉は、単純な自由の賛歌ではないように思う。

何も持たないということは、帰属する安心も持たないということだ。

どちらかの正しさに身を置けば、もっと楽に生きられるかもしれない。

それでも、さすらう。

「ファイト!」で自分の人生の決定権を自分へ戻した人間が、「旅人のうた」では、誰かの正しさに自分の人生を預けず歩いているようにも見える。

中島みゆきは、抗わない

そして、すべての原点に戻ると「時代」がある。

中島みゆきは、人生に起きることすべてを自分の思い通りにしようとはしない。

別れたのなら、別れた。

一人なら、一人。

未練があるなら、ある。

時代が変わるなら、変わる。

現実を、自分に都合のいい物語へ書き換えようとしない。

これは諦めとは違う。

抗わない。しかし、委ねない。

この二つが同時に存在している。

世界がどう動くかまでは決められない。

しかし、その世界で自分がどう生きるかは、自分で決める。

だから「時代」と「ファイト!」は矛盾しない。

むしろ同じ場所から生まれているように思える。

中島みゆきは「変わった」のではなく、成長した

もちろん、約50年も活動していれば作品は変化する。

若い頃と現在で、同じ歌を書くはずもない。

しかし、それを思想の転換と考える必要はないのかもしれない。

人は歳を重ねる。

経験が増える。

見るものが増える。

若い頃には恋愛がある。

別れがある。

嫉妬がある。

歳を重ねれば、人間をもっと見る。

社会を見る。

生と死を見る。

時間を見る。

時代を見る。

腹が変わったのではない。

見える世界が広がっていった。

そう考えると、デビュー直後に「時代」が存在することにも納得がいく。

最初から人生を見る目は持っていた。

そこへ実際に生きた年月が積み重なっていった。

背伸びをして大人の歌を書く必要もない。

若い自分を演じ続ける必要もない。

その時々に見えているものを、その年齢の自分で歌えばいい。

商業作品にも中島みゆきがいる

キャリアを重ねると、ドラマやテレビ番組などのために制作された楽曲も増えていく。

当然、そこには商業音楽として求められる役割もあっただろう。

しかし興味深いのは、依頼する側も「中島みゆき」という作家を理解したうえで依頼していることだ。

「空と君のあいだに」。

「旅人のうた」。

「地上の星」。

「ヘッドライト・テールライト」。

作品や番組という外部から与えられたテーマがありながら、出来上がった曲には中島みゆきの世界がある。

依頼に合わせて自分を消すのではない。

与えられた物語の中から、自分なら何を歌えるのかを探す。

だから商業作品であっても、彼女の長い作品史から切り離されない。

むしろ、依頼する側が中島みゆきという作家に何を求めていたのかまで見えてくる。

自分の年齢を歌える人

そして、中島みゆきは今もいる。

これは当たり前のようで、すごいことだ。

若い頃に作った自分のイメージを、永遠に演じ続ける必要がない。

23歳には23歳の歌がある。

40歳には40歳の歌がある。

60歳には60歳の歌がある。

70代になれば、その年齢だから見えるものがある。

それを歌えばいい。

自分の年齢にさえ抗わない。

だから昔の作品を否定する必要もない。

「悪女」を書いた自分も中島みゆき。

「時代」を書いた自分も中島みゆき。

「うらみ・ます」を書いた自分も、「ファイト!」を書いた自分も、「旅人のうた」を書いた自分も、その時々の中島みゆきだ。

全部が一本につながっている。

中島みゆきは、一言でいえば潔い

中島みゆきは、希望だけを歌う人ではない。

強い女性だけを歌う人でもない。

人生の正解を教える人でもない。

むしろ、正解など簡単には分からない世界を、そのまま描いてきた。

人は恋をする。

別れる。

嫉妬する。

恨む。

間違える。

歳を取る。

時代は変わる。

それに抗って、自分を実物より立派に見せようとはしない。

そして、他人の正しさに自分の人生を預けることもしない。

中島みゆきの作品に一貫しているのは、いつも同じことを考えていることではない。

いつも強いことでもない。

その時々の感情と現実に、嘘をつかないこと。

だから「時代」と「うらみ・ます」を、同じ人が書ける。

一方では人生を遠くから眺め、一方では恨みをむき出しにする。

矛盾しているようで、矛盾していない。

どちらも、その瞬間に見えているものから逃げていない。

それは思想というより、生きる態度なのかもしれない。

抗わない。
しかし、委ねない。

自分の人生を、自分のものとして引き受ける。

たとえ、その選択の先が幸福ではなかったとしても。

だから中島みゆきの歌は、悲しい歌でさえ不思議なほど清々しい。

「わかれうた」も。

「ひとり上手」も。

「悪女」も。

「横恋慕」も。

「うらみ・ます」も。

そして「時代」も、「ファイト!」も、「旅人のうた」も。

中島みゆきは、ずっと格好つけていない。

その時代、その年齢、その瞬間に見えているものを歌ってきた。

だから彼女の歌は古くならないのかもしれない。

そして、中島みゆき自身もまた、古くならない。

時代に抗わず、時代の中で自分を歌い続けてきたから。

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