ラーメン二郎。
黄色い看板。
山のように盛られた野菜。
極太の麺。
分厚い豚。
そして「ニンニク入れますか?」という独特の世界。
いまや「二郎系」という言葉だけで、一つのラーメンジャンルが成立するほどの存在になった。
しかし、このラーメンがどのように生まれ、なぜここまで大きな文化になったのかは、意外と知られていない。
実は、最初の二郎は現在の二郎とはまるで違った。
そして、その歴史をたどっていくと、ある大学の存在が何度も登場する。
慶應義塾大学だ。
ラーメン二郎は、単に慶應大学の近くにあった人気ラーメン店ではない。
慶應生との交流の中で三田へ移り、味を変え、量を増やし、危機を乗り越えながら現在の姿へと育っていった店なのである。
最初の二郎は「二郎」ですらなかった
ラーメン二郎の始まりは1968年ごろ。
創業者の山田拓美氏が、東急東横線・都立大学駅近くで始めた小さなラーメン店だった。
しかも店名は、
「ラーメン次郎」
だった。
山田氏によれば、当時「ラーメン太郎」という商品のCMがあり、「太郎ではそのまますぎる」と考えて「次郎」にしたという。
それが三田へ移転するとき、大工が店名を間違えてテントに「ラーメン二郎」と書いてしまった。
直すのも面倒なので、そのまま二郎になった。
現在では巨大なブランドとなった「二郎」という名前そのものが、まさかの書き間違いから生まれている。
創業者は、ラーメンをほとんど知らなかった
さらに驚く話がある。
山田氏はもともと和食の料理人だった。
ラーメン店を始める以前は、ラーメンを作った経験どころか、ほとんど食べた経験さえなかったという。
当然、最初から繁盛したわけではない。
開業後3カ月、休まず営業しても、
1日平均18杯程度。
店をやめようと考えるほどだった。
転機になったのは、客として来ていた別のラーメン店主や学生たちだった。
山田氏は店を昼間閉め、別のラーメン店で約3カ月勉強する。
そしてスープ、醤油、みりん、麺、丼まで、一気に作り直した。
麺は約1.5倍。
丼も大きくした。
こうして、現在の二郎につながる原型が生まれていった。
昔の二郎にはメンマもナルトも卵もあった
とはいえ、その時点でも現在の二郎とは違う。
当時はまだ、
メンマ。
ナルト。
うずらの卵。
などを載せていたという。
それが三田へ移ってから姿を変える。
余計なものをやめ、
野菜と豚を豪快に載せる。
麺が増え、強い醤油に負けないよう脂も増えていった。
現在では誰もが一目で分かる「二郎」が、少しずつ完成していったのである。
そして慶應生が、二郎を三田へ呼んだ
ここから二郎と慶應の物語が始まる。
都立大学時代から、日吉キャンパスへ通う慶應生が二郎を訪れていた。
ところが開業から約4年後、店に立ち退きの話が持ち上がる。
ある日、山田氏が慶應の学生と麻雀をしていたとき、その話をした。
すると学生から、慶應の正門前で空く店舗があるから三田へ来ないか、と誘われた。
そして二郎は三田へ移る。
つまり、
「二郎が三田にあったから慶應生が通い始めた」
というだけではない。
その前から関係があり、慶應生との縁によって二郎は三田へやってきたのである。
慶應生の声が「二郎の味」を変えていった
三田へ移った二郎は、さらに慶應生との関係を深めていく。
山田氏は後年、最初は和食的な味だったものが、学生からもっとこってりした味を求められ、研究を重ねて現在の味になったと語っている。
醤油も麺も変えた。
量も増えた。
麺を増やしたことには、学生向けという狙いもあった。
現在では二郎を象徴する、
大量の麺。
野菜。
豚。
脂。
その形成過程にも、学生街の食欲があったのである。
二度目の立ち退き危機――今度は慶應生が署名運動
1990年代前半、二郎は再び道路拡張による立ち退き問題に直面する。
そこで起きたのが、なんと、
慶應キャンパスの学食に二郎を入れようという動きだった。
署名運動まで行われ、大学側も検討したという。
最終的にキャンパス内への移転は実現しなかった。
しかし今度は慶應の柔道部員たちが、現在地となる物件が空くことを山田氏へ知らせ、契約まで手伝った。
さらに山田氏の妻が交通事故に遭った際には、應援指導部や体育会の学生たちがアルバイトとして店を支えたという。
ここまで来ると、単なる「大学近くの人気店」という表現では足りない。
慶應生は二郎を食べた。
三田へ呼んだ。
味や量の変化にも影響した。
店がなくなりそうになれば動いた。
二郎と慶應は、長い時間をかけて一緒に歴史を作ってきたのである。
山田氏は2019年、長年の功績から慶應義塾の「特選塾員」にも選ばれている。
二郎は、なぜ全国へ広がったのか
三田で育った一杯が、なぜ全国へ広がったのか。
ここにも二郎独特の仕組みがある。
普通なら人気飲食店は、会社が資本を出して同じ店舗を大量に出店する。
あるいはフランチャイズ加盟者を募り、マニュアル化された店舗を増やしていく。
二郎は少し違う。
山田氏本人によれば、各店舗は独立採算。
修業した人が独立して店を出す際には「営業審査委員会」が判断する。
加盟店契約書も存在する。
全国の店主が集まる店主会議も開催され、認められた店主には「認定証」まで渡される。
つまり二郎は、自由な個人店の集合体でもなければ、完全に均一化された巨大チェーンでもない。
人が修業する。
認められる。
独立する。
そして自分の店を持つ。
この繰り返しによって、二郎は全国へ広がっていった。
直系二郎では「修業した店主自身が厨房に立つ」ことが重要な原則として長く語られてきた。
ただし、公開されている加盟店契約書などで詳細な勤務条件まで確認できるわけではないため、これは二郎文化の中で受け継がれてきた原則として捉えるのが適切だろう。
同じ二郎なのに、店によって違う
この仕組みを知ると、二郎の面白さがよく分かる。
同じ「ラーメン二郎」なのに、店によって味が違う。
麺も違う。
乳化の具合も違う。
盛りも違う。
メニューも違う。
それでも、二郎である。
グループでは共通の醤油を使用し、認定された店には認定証が与えられる一方、それぞれの店は独立採算で運営されている。
大量出店によって完全に均質化するのではなく、二郎という核を残しながら店主ごとの個性も残す。
だからファンにとっては、
「二郎を食べに行く」
だけではない。
「今日はどこの二郎へ行くか」
までが楽しみになる。
この違いが、店ごとにファンを生み、二郎という文化をさらに大きくしていった。
二郎は人から人へ広がった
二郎の広がり方を見ると、それがよく分かる。
最初期の直系として知られるのが、1986年の吉祥寺店。
その後、二郎を離れて「生郎」となり、2015年に閉店した。
1991年には旧赤羽店が登場。
こちらも後に二郎を離れ、「○二郎」「マルジ」を経て、現在の「ラーメン富士丸」につながっていく。
1995年には目黒店、仙川店が登場。
そこから90年代後半、2000年代へと直系店が増えていった。
現在では東京、神奈川、千葉、埼玉だけでなく、北海道、東北、北関東、東海、関西、九州、そして沖縄にまで直系の暖簾が広がっている。
一軒の店が巨大企業となって支店を増やしたのではない。
二郎で働いた人が二郎を受け継ぎ、それぞれの土地へ持っていったのである。
暖簾を離れても、二郎のDNAは残った
さらに面白いのは、二郎という看板を離れた後も、その文化が消えなかったことだ。
吉祥寺店から「生郎」。
旧赤羽店から「ラーメン富士丸」。
武蔵小杉店から「こじろう526」。
直系から離れ、別の名前になっても、その先に二郎のDNAを感じさせる店が生まれた。
なかでも旧赤羽店からつながる富士丸は、その後の二郎系ラーメンを語るうえで欠かせない存在となっていく。
つまり二郎の影響は、直系店の数だけでは測れない。
弟子が店を出す。
そこから別の店が生まれる。
その味やスタイルに影響を受けた人が、さらに店を出す。
やがて「ラーメン二郎」という看板の外側にまで、巨大な食文化が形成されていった。
「二郎インスパイア」を山田氏はどう見ているのか
ここで意外なのが、創業者・山田氏の姿勢だ。
山田氏は2019年のインタビューで、二郎インスパイア系そのものについては比較的おおらかな姿勢を示している。
問題視しているのは、二郎で修業していないのに「二郎で修業した」と偽るようなケースだという。
実際、二郎は過去に無断で「ラーメン二郎」の看板を使ったチェーン展開への対応を迫られ、それをきっかけに弁護士と相談し、グループ化のための規約を整備していった。
つまり、現在の直系制度も最初から完成していたわけではない。
二郎が大きくなる過程で、
「何を二郎とするのか」
「誰に二郎を名乗ってもらうのか」
という仕組みも作られていったのである。
一軒のラーメン店から、一つの食文化へ
ラーメン二郎の歴史をたどると、巨大ブランドを作ろうとして計画的に全国展開した物語とはかなり違うことに気づく。
ラーメンをほとんど知らなかった一人の和食料理人が店を始めた。
客が来なかった。
学生に酷評された。
別の店へ勉強に行った。
麺を増やした。
醤油を変えた。
脂を増やした。
慶應生との縁で三田へ移った。
学生たちの胃袋に応えるうち、さらに量が増えた。
立ち退きになれば、また学生たちが動いた。
そして店で働いた人間が修業し、認められ、自分の店を持っていった。
さらに、その暖簾を離れたところからも新しい店が生まれた。
そうして約60年。
二郎は一軒のラーメン店から、一つの食文化になった。
二郎の歴史には、いつも人がいる。
創業者。
学生。
常連客。
弟子。
店主。
そしてジロリアン。
だからラーメン二郎は、単なる「大盛りラーメン」の店ではないのかもしれない。
三田の小さな店で育ち、人から人へ受け継がれながら全国へ広がった、日本独自の食文化なのである。
【主な参考資料】
・慶應義塾「塾生の空腹を満たす、二大・三田グルメ」
・東京弁護士会 LIBRA「ラーメン二郎 店主 山田拓美氏インタビュー」
・ラーメン二郎 歴史・店舗系譜資料
・各店舗公開情報


