本当に時間は流れているのか――「時間の矢」を時計と宇宙の変化から考える

「時間は逆向きにも流れるのではないか」

そんな話を目にした。

物理学の基本方程式の多くには、時間の向きを反転させても成り立つ性質がある。

それなのに、私たちは明らかに「過去 → 未来」という一方向に進んでいるように感じる。

なぜなのか。

この「時間の矢」は、物理学の大きなテーマの一つになっている。

日常的に感じる時間の矢は、主に熱力学的な不可逆性と関係している。ただし、その根本には宇宙の初期条件などの問題もあり、時間の非対称性を考える際には量子現象も含め、複数の論点が関わってくる。

さらに理論物理学では、時間そのものが宇宙の根源的な存在ではない可能性まで議論されている。

しかし、この話を考えていて、もっと手前のところに疑問を感じた。

そもそも「時間が流れる」とは、どういうことなのだろう。

なぜ私たちは「未来」を感じるのか

私たちの身の回りには、一方向にしか起きないように見える現象が無数にある。

コップからこぼれた水は、勝手にコップへ戻らない。

混ざったものは、自然に元通りに分離しない。

熱いコーヒーは周囲へ熱を渡して冷めていくが、冷めたコーヒーが周囲から勝手に熱を集め、元の温度へ戻ることは通常ない。

こうした「自然には元の状態へ戻らない」という熱力学的な不可逆性が、私たちが感じる時間の向きと深く関係している。

物理学では、この一方向性をエントロピーの増大と結びつけて「熱力学的時間の矢」と呼ぶ。

つまり私たちが、

過去 → 未来

という向きを感じる背景には、宇宙で起きる物理現象の多くが、巨視的には不可逆な過程として進んでいることがある。

だが、ここで一つ疑問が生まれる。

不可逆な「変化」が存在することと、

「時間」という何かが一方向へ流れていることは、本当に同じなのだろうか。

恒星に「寿命」がある

宇宙を見れば、変化が一方向に積み重なっていること自体は、それほど不思議には見えない。

恒星はガスから生まれ、核融合を始め、燃料を消費し、やがて寿命を迎える。

惑星も形成され、その後、長い過程の中で状態を変えていく。

私たち自身も生まれ、成長し、老いていく。

宇宙には明らかに「履歴」がある。

恒星に寿命があるという事実だけを見ても、

宇宙では状態が変化し、その変化が積み重なっている

ことが分かる。

ならば、私たちが一方向にしか進めないように感じること自体は、それほど不思議なのだろうか。

むしろ疑問に思ったのは、

「時間」というものを、変化とは別に存在する独立した実体として考える必要があるのか

ということだった。

そもそも問いの立て方が違うのではないか

ここまで考えて、最初に立てた問いそのものに違和感が出てきた。

「時間は逆向きにも流れるのか」

しかし、この問いは最初から、

「時間という何かが流れている」

ことを前提にしている。

もし私たちが観測しているものが、時間そのものではなく、宇宙で起きている物理状態の変化だとしたらどうだろう。

その場合、先に考えるべきなのは、

「時間は逆向きに流れるのか」ではなく、「そもそも流れている時間というものは何なのか」

ではないだろうか。

時間の向きを考える前に、時間そのものについて考える。

ここから問いを一段手前に戻してみたい。

最初から100個の○がある必要はない

たとえば、

「鉛筆で○を100個書いてください」

と言われたとする。

最初から紙に100個の○が現れるわけではない。

1個を書く。

次に2個目を書く。

3個、4個と増えていき、最終的に100個になる。

結果だけ見れば100個の○が存在している。

しかし、そこには生成の過程がある。

宇宙も同じように、完成された現在の状態が最初から存在したのではなく、ある状態から変化を積み重ねて現在の姿になったと考えれば、「履歴」が存在すること自体はそれほど奇妙には感じない。

もちろん、この例だけで「なぜ初期宇宙が低エントロピーだったのか」という物理学上の問題を説明できるわけではない。

○を一つずつ書くという例には、すでに「生成していく」というルールが含まれているからだ。

ただ、ここで言いたいのはもっと単純なことだ。

変化するものには、過程がある。

宇宙が変化して現在の状態になったのであれば、そこに履歴が存在すること自体は自然に思える。

では、その「過程」を私たちは何によって測っているのだろうか。

人類が最初に測ったのは「時間」だったのか

ここで時計について考えてみる。

人類が古くから使ってきた日時計では、太陽の見かけの動きによって変化する影の位置を利用する。

しかし、日時計が直接検出しているものは「時間」という何かではない。

地球が自転する。

太陽との位置関係が変わる。

影の位置が変わる。

その規則的な変化に、人間が目盛りを付けた。

つまり、

まず物理的な変化があり、その規則性を人間が時計として利用した。

時計とは、規則的な物理過程を数え、別の変化と比較できる形にする装置だ。

その後、人類は振り子、水晶振動子、そして原子へと、より安定した周期現象を利用するようになった。

現在のSI秒も、セシウム133原子の超微細遷移に対応する周波数を基準として定義されている。

かつて秒は、地球の平均太陽日の1/86,400を基準としていた。

しかし地球の自転にはわずかな変動がある。

より精密な計測のため、人類は地球の自転より安定した原子現象へ基準を移した。

人類が改良してきたのは、

「時間そのものを捕まえる装置」ではなく、「変化を比較するための、より精密な物差し」なのではないか。

そんな見方もできる。

私たちは日常でも「時間」と呼び替えている

もっと身近な例でも考えられる。

東京から大阪まで移動するとする。

徒歩なら何日もかかる。

新幹線なら数時間で到着する。

私たちはこれを、

「移動時間を短縮した」

と言う。

しかし、短縮されたのは「時間」という何かそのものだろうか。

距離そのものが短くなったわけではない。

地球の自転が速くなったわけでもない。

原子時計の1秒が変わったわけでもない。

変わったのは、人間の移動速度だ。

同じ出発地点から同じ到着地点までを移動するために必要な物理過程が変わり、その結果として到着までに時計が刻む量が少なくなった。

それでも私たちは、

「時間を短縮した」

と表現する。

この日常語だけを見ても、人間が「時間」という概念を出来事の進行に貼り付けて考えていることが分かる。

もちろん、ここで言っている「時間の短縮」は、相対性理論でいう時計の進み方の差ではない。

日常語として、同じ出発地点から到着地点までに要した経過時間が短くなったという意味である。

地球の24時間は宇宙共通ではない

私たちにとって「1日=24時間」はあまりにも当たり前だ。

しかし、その基盤には地球の自転と太陽との位置関係がある。

当然ながら、別の天体ではその周期が違う。

分かりやすいのが火星だ。

火星には、火星自身の太陽日がある。

火星探査では、これを「sol(ソル)」として扱う。

1ソルは地球時間に換算すると約24時間39分35秒。

探査活動でも「Sol 1」「Sol 100」といった形で、火星自身の昼夜周期を基準に運用することがある。

そして月を見ると、この話はさらに面白くなる。

月の自転周期は約27.3日だが、太陽に対する昼夜の一周期、つまり月の太陽日は約29.5地球日に相当する。

数字が違うのは、月自身が回転している間にも、月が地球とともに太陽の周りを移動しているからだ。

つまり同じ月を見ていても、

「恒星などに対して一回転するまで」

を基準にするのか、

「太陽が同じ位置関係に戻ってくるまで」

を基準にするのかによって、周期は変わる。

これは今回の話を考えるうえで、とても象徴的だ。

「一日」という言葉でさえ、何を基準として変化を測るかによって値が変わる。

宇宙には、地球とは異なるさまざまな「変化のリズム」が存在している。

これらは宇宙に刻まれた共通の時計ではない。それぞれの物理系に現れる、異なる周期や変化のリズムである。

比較の尺度と、その場所の変化は同じではない

もちろん、宇宙を比較するためには共通の尺度が必要になる。

火星の1ソルが地球の何時間に相当するのか。

月の太陽日が地球の何日に相当するのか。

恒星の脈動周期が何秒なのか。

そうした比較を行うには、SI秒のような共通単位が必要だ。

しかし、

比較に使う尺度と、その場所で実際に起きている変化のリズムは同じではない。

地球の24時間は、宇宙全体に最初から存在している時間ではない。

地球という環境の中で、地球の周期運動を基盤として発達してきた尺度である。

火星を理解するなら、最初から地球の24時間だけを当てはめるのではなく、まず火星自身を見る。

火星はどのくらいで自転するのか。

昼夜はどう変化するのか。

公転周期はどうなっているのか。

季節はどう変わるのか。

そのうえで、

「地球時間に換算すると何時間か」

と比較する。

地球時間への換算は、その後に行う比較のための操作だ。

まず「その場所で何が変化しているのか」を見る

同じことは他の天体や物理系にも言える。

地球には自転と公転がある。

火星にも自転と公転がある。

恒星には自転や脈動、核融合による進化がある。

放射性物質には崩壊がある。

原子には遷移がある。

場所や物理系によって、自転、公転、昼夜、振動、脈動、原子遷移、崩壊、反応、重力場、そして物体がたどる経路など、さまざまな「変化のリズム」が存在する。

ただし、ここは厳密に区別する必要がある。

相対性理論における時間の進み方は、「場所」だけで決まるわけではない。

重力場の中でどの経路をたどるか、どのように運動するかによって、物体が積算する固有時間が決まる。

したがって、

「地球には地球固有の時間が流れ、火星には火星固有の時間が流れている」

という意味ではない。

ここで注目しているのは、

それぞれの環境に異なる周期や物理的変化があり、それを時間の基準として利用できる

ということだ。

宇宙を地球の時計だけで測ることは、比較の方法として非常に便利だ。

しかし、それは同時に、宇宙を地球で作った尺度から見ているということでもある。

だから時空を物理として考えるなら、地球の24時間を宇宙に押し広げるだけでは足りない。

まず、その場所で何が変化し、どの周期が規則性を持ち、どの物理過程が時計として機能するのかを見る。

そして、その後で共通単位に換算して比較する。

「時間が遅れる」とは何なのか

ここで相対性理論が出てくる。

高速で移動した時計や、異なる重力条件を経験した時計を比較すると、その示す値には実際に差が生じる。

GPS衛星でも、この相対論的効果は現実に補正されている。

これは非常に高い精度で確認された物理現象であり、相対性理論を否定する話ではない。

そして重要なのは、

原子時計という装置だけに、この現象が起きているわけではない

ということだ。

相対性理論では、時計を含む局所的な物理過程全体が、その物体の経路に沿った固有時間に対応して進む。

したがって、

「原子時計だけが重力や速度の影響で狂っている」

という話ではない。

それでも、私たちが実験で直接読み取るのは、物理過程を利用して作った時計や、粒子の崩壊などを比較した結果である。

私たちは「時間」という物質のような何かを直接取り出して測っているわけではない。

だから観測事実だけを別の言葉で表現すると、

重力条件や運動条件が違えば、そこで起こる物理過程を別の場所の物理過程と比較したとき、進行量に差が出る。

となる。

これは、

「時間そのものが遅くなった」

という日常的な表現とは、少し印象が違う。

前者は、観測された物理現象の違いを述べている。

後者は、「時間」という何かが伸び縮みしているようなイメージを持たせる。

物理学では、それらの結果を時間や固有時間という物理量によって極めて正確に記述している。

ここまでは観測と理論の話だ。

しかし、

「異なる経路で固有時間が異なる」ことと、「時間という独立した何かが流れていて、その流れる速度が変わった」と考えることは同じなのだろうか。

ここから先は、時間をどう解釈するかという問題になる。

私たちは「時間そのもの」を観測したことがあるのか

この問いを慎重に言い換えるなら、

「時間は計測器がなければ存在しない」

と断定する必要はない。

それでは、時間を時空の基本的な構成要素として考える物理学の立場まで否定することになる。

しかし、

私たちは時間そのものを直接観測しているわけではない。

これは重要だ。

実際に観測しているのは、常に物理状態の変化である。

日時計なら影の位置。

振り子時計なら振り子の運動。

クォーツ時計なら水晶振動子の振動。

原子時計なら原子に関係する周期的な物理現象。

粒子実験なら粒子の崩壊。

そして、それらの変化を別の変化と比較している。

時計とは、

規則的な物理過程を数え、ほかの変化と比較できる形にする装置

なのだ。

宇宙にあるのは「変化」ではないか

日時計なら、地球の回転と影の変化。

原子時計なら、原子に関係する周期的な現象。

火星なら、火星自身の自転。

月なら、自転と太陽との位置関係。

恒星なら、自転、脈動、核融合、そして進化。

私たちは、そうした規則的な変化を基準として、別の変化と比較している。

そう考えると時間とは、

「変化しているもの同士の関係を表すための尺度」

とも考えられる。

宇宙に「1秒」という物質が存在しているわけではない。

「時間の粒子」が宇宙を流れていることが確認されているわけでもない。

まず宇宙に変化がある。

その中から人間が規則性を見つける。

それを物差しとして使う。

そして、その関係を「時間」と呼ぶ。

「時間は存在しない」と考える物理学者もいる

こうした発想は、単なる哲学的な思いつきでもない。

理論物理学には、時間を宇宙の根源的な構成要素ではなく、物理系同士の関係から現れるものとして考える立場がある。

カルロ・ロヴェッリは、時間を関係的・熱力学的な観点から考えてきた物理学者の一人だ。

ジュリアン・バーバーも『The End of Time』などで、時間を基本的実在としない立場を展開している。

さらに量子重力では、「時間の問題」と呼ばれる根本的な難問がある。

量子重力の一部の定式化では、通常の量子力学のような外部時間を方程式に明示的に置けないため、「時間の問題」が生じる。

代表的なウィーラー=ドウィット方程式も、この問題を考える際によく取り上げられる。

もちろん、

「だから時間は存在しないことが証明された」

という意味ではない。

時間を時空の基本的な構成要素として扱う理論もあり、時間が根源的なのか、それともより基本的な物理関係から現れるものなのかについて、決着はついていない。

では「時間が逆向きに流れる」とは?

ここでようやく、最初の問いに戻ってくる。

「時間は逆向きにも流れるのか」

しかし、ここまで考えると、この問いは最初とは少し違って見える。

もし時間が独立して流れる実体ではなく、物理状態の変化を表す尺度だとすれば、

逆向きに流れる「時間」とは、いったい何なのか。

物理方程式を時間反転させて記述できることと、宇宙に存在する何かが実際に逆方向へ流れることは同じではない。

むしろ問うべきなのは、

物理状態の変化が逆向きになるとは何を意味するのか。

出来事の順序が反転するとは何を意味するのか。

なのかもしれない。

最初は「時間は逆向きにも流れるのか」という問いから始めた。

しかし、その問いを追いかけていくと、

「そもそも時間は流れているのか」

という、さらに手前の問題に戻ってきた。

人間が作ったのは「時間」という物差しなのかもしれない

もちろん、「時間は存在しない」という考え方が現代物理学で確定しているわけではない。

しかし、一つ確かなことがある。

私たちは「時間そのもの」を手に取って測っているわけではない。

私たちは宇宙に存在する規則的な変化を時計として選び、別の変化と比較している。

日時計から原子時計まで、その基本構造は変わらない。

地球には地球の周期がある。

火星には火星の周期がある。

月には月の周期がある。

恒星にも、それぞれの物理的な変化がある。

そして私たちは、それらを比較するために共通の「秒」という物差しを使う。

だから、

共通の物差しが存在することと、宇宙全体に共通する絶対的な時間が存在することは同じではない。

宇宙には変化がある。
その変化には規則性がある。
人間はその規則性を物差しにした。
そして、その物差しを「時間」と呼んだ。

だから、この記事を考えながら最後に残った感覚を、そのまま言葉にするならこうなる。

時間が流れているのではない。

宇宙が変化している。

その変化を数えるために、人間は「時間」という目盛りを作った。

そう考えると、

「時間はなぜ一方向に流れるのか」

という問いの前に、もう一つ問いがある。

そもそも時間は、本当に「流れている」のだろうか。

コメント

タイトルとURLをコピーしました