2026年8月29日から30日に放送された日本テレビ系「24時間テレビ49」で、チャリティーマラソンを走った俳優・星野真里さんの発言が議論を呼んでいる。
星野さんが語ったのは、先天性ミオパチーの娘・ふうかさんが小学1年生だったときの授業参観だ。
通常学級の教室で、娘はほかの児童のさらに後ろに一人でいた。先生から声をかけられることもなく、「授業に参加している」というより、ただ「いさせてもらっている」ように見えた。星野さんは学校へ疑問を伝え、その後すぐに対応してもらったという。
自分の子どもが教室で孤立している姿を見れば、親が傷つくのは当然だと思う。
一方で、この話に違和感を示した人を、ただ「心が狭い」「障害者に冷たい」と片づけることにも違和感がある。
今回の炎上が投げかけたのは、障害のある子どもを受け入れるべきかという単純な二択ではない。
受け入れると決めたとき、そのために必要な負担を誰が引き受けるのか、という問題だ。
娘は支援級に在籍している
まず、事実関係を整理しておきたい。
ふうかさんは、保護者が通常学級へ無理に押し込んだ児童ではない。公立小学校の肢体不自由特別支援学級に在籍しながら、学校生活の一部を通常学級で学んでいる。
父親の高野貴裕さんは2025年のインタビューで、学校で過ごす時間の半分ほどを通常学級、体育などを支援学級で過ごしていると説明している。これは支援級の児童が通常学級で学ぶ「交流及び共同学習」にあたり、保護者だけで一方的に決めるものではない。
文部科学省によれば、障害のある児童の学びの場は、本人と保護者の意向を最大限尊重しつつ、障害の状態、必要な支援、学校や地域の状況、専門家の意見などを踏まえて、市区町村教育委員会が判断する。
「通常学級を選んだのだから、支援を求めるな」という批判は、今回の事実とは少しずれている。
なお、X上では「特別支援学校の児童」「24時間人工呼吸器が必須」「支援級は身の回りのことを一人でできる子だけ」といった説明も広がった。
少なくとも公表資料で確認できるのは、公立小学校の肢体不自由特別支援学級に在籍し、2025年時点では人工呼吸器を就寝時と日中の必要時に使っていた、というところまでだ。支援級に全国一律の「身辺自立」要件もない。
必要な介助は決して軽くない
ただし、「支援級に在籍しているのだから、通常学級でも簡単に受け入れられる」と考えるのも違う。
高野さんの説明によると、ふうかさんは首がすわっておらず、自分で座った姿勢を保つことが難しい。抱き上げる際には首の支えが必要で、電動車いすへ乗るときも首当てやベルトを使用する。
人工呼吸器は就寝時に加え、日中に息苦しさを感じたときにも使う。風邪などで状態が悪化すれば、酸素吸入や鼻水、痰の吸引が必要になることもある。一方、電動車いすは本人が操作できる。
知的な学びと身体介助は別の問題だ。
授業内容を理解できるからといって、通常学級で必要となる支援が軽いとは限らない。
文部科学省のQ&Aも、交流及び共同学習は、支援級の担任が交流先でサポートするなど、適切な指導体制を整えられる範囲で実施する必要があるとしている。
つまり、国の制度も本来は「通常学級の担任一人で何とかする」「周囲の児童が手伝う」ことを前提にしていない。
協力する側の意思は、どこにあるのか
今回、最も考えさせられたのはここだった。
星野さんは2024年の毎日新聞のインタビューで、幼稚園時代の友達が、大人の様子を見ながら娘に必要な介助をしてくれたと振り返っている。そして、通常学級の子どもにとっても、学校が「自然に誰かをサポートする経験」ができる場所になればよい、という趣旨の考えを語っている。
感謝と善意から出た言葉なのだと思う。
確かに、子ども同士が助け合う経験には価値がある。困っている友達に声をかけたり、移動を少し待ったり、一緒にできる方法を考えたりすることは、学校だからこそ学べるものでもある。
しかし、助け合いと介助は同じではない。
継続的に隣へ座る。移動に付き添う。授業の準備を手伝う。先生が対応できない間に様子を見る。
いつも同じ児童がその役割を担えば、その子は友達ではなく、事実上の支援者になる。
実際、今回の炎上をきっかけに、Xでは「しっかりした子だから」「学級委員だから」という理由で、特定の児童の“お世話係”を長く任されたという経験談が相次いだ。
個々の事実関係までは確認できないが、学校行事のたびに隣へ配置され、修学旅行だけは役割から解放してほしいと学校へ訴えた保護者や、内申への影響が怖くて断れず、受験期になって初めて声を上げた保護者もいる。
そうした経験を、すべて偏見や差別として処理してはいけない。
障害のある本人や保護者とは、就学先や必要な配慮について話し合う。
しかし、その配慮を日常的に支える側になる児童には、「協力して当たり前」という空気が先に置かれる。
本人の自己決定は権利として扱われる一方、周囲の負担は思いやりとして無償化されやすい。
ここには、明らかな非対称性がある。
同級生に拒否権はない。しかし介助義務もない
もちろん、通常学級の児童やその保護者に、障害のある子どもの在籍を拒否する権利を与えるべきだ、という話ではない。
同じ教室で学ぶことと、同級生に介助を負わせることは別問題だ。
障害のある子どもには学ぶ権利がある。
同時に、ほかの児童にも自分の授業へ集中し、特定の誰かの世話を背負わずに学校生活を送る権利がある。
この二つを両立させる責任は、子どもではなく大人にある。
必要なのは、専任の支援員、医療的ケアに対応できる看護職員、支援級と通常学級の教員が連携できる時間、教室内の動線や教材の調整だ。
友達として自然に手を貸すことはあっていい。
だが、それを最初から人員配置の一部として数えてはいけない。
教育委員会は「受け入れます」で終われない
制度上、就学先の最終判断をするのは市区町村教育委員会だ。
通常学級で交流する教科や時間割は学校が組むが、その学校へ教員、支援員、看護職員を配置できるかどうかは、設置者である自治体や教育委員会の予算と判断に大きく左右される。
本人と保護者の意向を尊重し、可能な限り同じ場所で学べるようにする。
この理念そのものは間違っていない。
問題は、「受け入れます」と決めた後である。
必要な人員や予算を用意しないまま、学校へ「工夫してください」と渡してしまえば、日々の穴埋めをするのは担任と同級生になる。
うまくいかなければ、今度は「配慮が足りない」「心が狭い」と現場が責められる。
決定する人と、負担する人が違う。
この構造こそ、今回の問題の中心ではないだろうか。
個別の学校や教育委員会が実際に何人配置し、どのような支援計画を作っていたのかは公表されていない。
したがって、今回の学校だけを一方的に怠慢だったと断定することはできない。
ただ、行政側に求められるのは「受け入れる姿勢」を示すことだけではない。
教育委員会は、必要な人員・予算・安全体制を確保できないまま、形式的に「受け入れられる」と判断するべきではない。
受け入れるという判断には、その環境を実際に成立させる責任まで伴う。
できないことを、できるように見せ、その不足分を現場の教員や周囲の児童、そして障害のある本人と家族の努力や善意で埋めさせれば、必ずどこかにしわ寄せがいく。
理念を掲げるのであれば、その理念を実現するだけの人員と予算を行政が用意する。
人員的にも、予算的にも、安全面でも、教育上も現実的に支えられないのであれば、その現実も含めて正直に説明するべきだ。
「共に学ぶ」という言葉だけを先に置き、そのコストと責任を教室へ押しつけることだけは、してはいけない。
星野真里さんだけを叩いても解決しない
星野さんが、娘の姿を見て学校へ声を上げたこと自体は責められない。
実際、学校は話を受けて対応を変えたという。
一方で、現場の負担を心配する声も、障害者への冷たさだけで生まれたものではない。
教師として背負った人がいる。
同級生として“お世話係”を経験した人がいる。
その子を育てた保護者もいる。
炎上では、それまで表に出にくかった「協力を求められる側」の声が一気に噴き出した。
24時間テレビは、母親の涙と教室の後ろにいた娘の姿を強く映した。
しかし、娘が支援級に在籍していたこと、通常学級へ誰が付き添う計画だったのか、なぜ一人になったのか、必要な人員が配置されていたのかまでは十分に伝わらなかった。
制度の説明を省けば、視聴者の目には母親と担任しか残らない。
その結果、母親を叩く側と、教師や同級生を「心が狭い」と叩く側に分かれた。
だが、本来問うべきなのはそこではない。
星野さん側の違和感も、現場や保護者側の反発も、それぞれ理解できる。
だから、どちらか一方を責めても解決しない。
本来問うべきなのは、インクルーシブ教育を進めると決めた行政が、そのために必要な人員、予算、安全面、教育環境まで用意しているのかということだ。
「共に学ぶ」と決めるのであれば、そのための費用と責任まで行政が引き受ける。
現実的に支えられないのであれば、その現実も含めて正直に示すべきだ。
インクルーシブ教育とは、現場に善意を要求して成立させるものではない。
善意に頼らなくても一緒に学べる環境を、大人が先に用意する制度であるべきだ。
主な参照資料
・星野真里さん・高野貴裕さんへの学校生活と医療的ケアに関するインタビュー(たまひよ)
・星野真里さんへのインクルーシブ教育に関するインタビュー(毎日新聞)
・障害のある子供の就学先決定について(文部科学省)
・特別支援学級及び通級による指導の適切な運用について Q&A(文部科学省)
・特別支援教育の現状・学級編制基準(文部科学省)


